花山広場に鎮座する杉の巨木。屋久杉(1000年以上の杉)でないかと推測します。この周辺の森では私的にはもっとも存在感のある無名の名木です。数ある屋久杉の中でも太さ、枝ぶり、着生物のつき具合のバランスがとても絶妙で、威風堂々としています。広場に到着するとまずこのアングルで姿を現してくれます。見る度に毎度、畏敬の念を感じさせてくれる木として、僕の心の中に大きな存在としてあり続けています。
この巨木と対峙していると「強さとは一体なんだろうか」そんな問いにいつも心が誘われます。その理由は、裏側に回ると気づく大きな傷にあるのかもしれません。
根元から樹冠の上部まで達するこの傷はいつ、どのようにしてできたのでしょうか。以前にかなりの大枝が折れ、そのパイプラインである道管と師管が断裂し壊死してできあがった傷なのかもなあと思っています。根元付近の幹では、傷の両側の樹皮は傷口を覆い隠すような成長をしています。
大枝が折れた際の傷と仮定してこれからお話しさせてください。
大枝が折れると、根から吸い上げる水分と、枝先の葉たちが蒸散で放出する水分のバランスが大きく崩れ、木自体が死んでしまうことがありますが、この木は死ぬことなくもちこたえ命を繋いでいます。
ある一本の杉の母樹から生み出された種たちが1000年生き残る確率は、屋久島の成熟した森のうす暗い林床や江戸時代に伐採された数々の切り株から想像するに、限りなくゼロに近いと思われます。
この木が奇跡的に現代まで生き残ってこれたのは、この木の生命力が元々強かったからなのか。はたまた傷を負ったことで少しずつ強くなっていったのか。いつもこの2択に思いが集約していってしまう、僕の関心ごとです。
その視点で、花山歩道を歩いていると、数々の傷だらけの木たちの存在に気づくことになります。傷を負っていない巨木はないと言っていいほど、本当に太い木ほど傷だらけです。それだけ屋久島の山岳の自然環境が厳しいということなのでしょう。
今年で42歳になる僕も20歳のころに比べると将来に対する不安やあどけなさがすっかりなくなり、こうやって生きていこうという信念が宿った頑固オヤジに仕上がっています。山を志事にしてしまったがゆえに、数え切れないほど山に入り、30代前半は肩に食い込むザックの重みに嫌気がさし何度も山が嫌になってしまったけど、その度に心の底から感動できる風景を山はいつも披露してくれました。その山岳のアメとムチの演劇にすっかりハマってしまって夢中で山に登って観賞していると、いつの間にか重すぎたザックが軽くなっている事に気づきました。肉体がバージョンアップしていたんです。
この木と無言の対峙をしている中で得られた一つの哲学。
失敗や問題、困難、課題、不安は強くなるためにとても必要なもの。避けるものではなく好んで体験するもの。
木も人も同じ生きものであるのなら、生きものとしての強さの多くは本能的に避けたい事象との化学反応によって後天的に備わるものだと信じるに至っています。
無敵の超人のように佇むこの無名の銘木から一体どれほどのポジティブな念をこれまで頂いてきたか、無限の境地にいる御仁です。