雪山での楽しみの一つがお湯づくり。屋久島の沢の水はとてもおいしいけど、やっぱりフワフワの雪を温かいお湯にしてホッコリしたくなるのが山屋のさが。
テント泊するときは、大きなゴミ袋にめいいっぱい雪を溜め込みますが、それだと雪のありがたみを感じにくいというか、風情がないというか。
1杯分だけの雪をお少し頂戴して
呼び水をたらし(水を少量入れないと氷がとけない)
最小限の燃料でジワーっと雪から水へ
やがてポコポコと湯気がコッフェルから飛びだし
ゆらゆらと温かなダンスをはじめたら
ん〜、文字化するだけでニヤニヤしてきちゃいますが、実際、現場で現代人がやろうとするとけっこうめんどくさいです。
手袋はずして
バーナーをザックから取りだして
ガソリンタンクをポンピングして
風防をセットして
コッフェルに雪を入れて
呼び水をいれて点火して
お湯が沸く間に、コップとお茶を準備して
もうこの間に手はかじかんでしまって
鼻水が垂れてます。笑
だったらサーモスにお湯入れて持って行っちゃえば楽じゃん。上述の7手間はすべて省力できちゃうよ。ということになりがちですが、ソロで行くときは保温ボトルをもっていくことはありません。(雪山ガイド山行の際は、緊急の時のために携帯してますが。)
だって、雪山の寒さも味わいたい楽しみのうちの一つだから。そして、その手間をかけてる空白の時間も。
山を登っていると、快適さと便利さは必ずしも幸福感に直結するとは限らないという哲学が身についてしまいます。むしろ、快適さを優先し「すぎた」ギア選びをしていると、「自然を感じる喜び」はザルで受け取る水のように、どこかへ容易にすり抜けてつかみ取ることができにくくなってしまいます。
前置きが長くなってしまいましたが、雪の1杯をいただく魅力を。
南アルプス鳳凰山での2泊3日の山行。雪からはじめてお湯をつくったときの感動が今だに忘れられません。
雪ってほとんど空気なんだ。
雪質にもよりますが、雪がとけて水になったとき体積は5分の1ぐらいになります。溶けては雪を足すという行為と行為の間に、そこにいなければならない空白の時間が生まれ、そこにゆたかな豊かな旅の時間が始まりだします。
この雪に含まれている空気は上空何mのところで水に包まれたのだろう
その時、どんな風に水と空気は混じり合うんだろう
その時、音ってするのかな
この雪の水はいったいどこからやってきたのだろう
偏西風にのって中国の方からやって来たのかな
だとしたら黄砂やPM2.5のミネラルもたっぷりだな
コロナウィルスはきっと死んじゃってるかな
この水はこれからお湯になって僕の体内に入って
吸収されて雪山のラッセルで再び再沸騰され大気へ
次は誰のもとにへ行くのかな
アラスカのどこかの山の氷河の一部になるかもしれない
だとしたら、、
おっと、沸騰してきた。
お気に入りの八万寿茶園さんのオーガニックほうじ茶にできたてのお湯をコボコボとそそぎ、一口ごくんっ。
胃には温点はないと言われているけど、内臓が冷え切っているからなのか、舌から胃までお茶が通過する軌跡がはっきりと感じ取れる。
ん〜うまい。
ほうじ茶は茎の部分でつくられ、人の体を温め
緑茶は葉の部分でつくられ、人の体を冷やすといわれています
なので、僕は冬はほうじ茶を飲み、夏は緑茶を好んで呑みます
そして、お茶は口内の殺菌成分もあるので
山泊の山行では歯磨きがわりに
なんて万能な飲み物なんだろう
八幡寿茶園の腰痛持ちの桂太くんが頭にふと過ぎる。
今頃、新茶に向けて準備の真っ最中かなあ。
最近、アンコにはまっていて、大福を頬張って、またほうじ茶を一口。ん〜うまい、うますぎる。
そして、ふたたび甘いあま〜い旅がはじまる。
今年は小豆をまいて、自家製のアンコをつくろう
今年も餅米のモミをまいたから
来年の雪山には極上の大福をもって
またこの森に来れるな
空白の時間は、あっちにいったりこっちにいったりしながらも
僕にはなくてはならない大切な繋がりと
できれば縁を切りたいシガラミという名の繋がりが
複雑怪奇に繋がりあって
この星が存在しているという当たり前の摂理を
しっかりと再認識させてくれる時間
その空白の時間は
手間隙がかかる作業と作業の間にいつも宿る
だから、遊びも暮らしも仕事も
手間隙をかけて
雪がじっくり溶けていくように
ゆっくりと噛みしめながら
日々生きていきたいものです