今年の初詣は島の西部にある瀬切川へ。
東京に住んでいる時は、神社仏閣が大好きでよく手を合わせていたけど、屋久島にきてから神社にまったく興味がなくなり、浅はかな信仰も無くなってしまいました。山のピークにある人工的につくられた祠も手を合わせる気がなくなってしまい、
山のピークに人がつくりだした神はいらない。
そんな、ひねくれた思いを持つようになってしまいました。そして、3年間厄払いをしないとどうなるか我が身で試してみましたが、後厄を終えて思うことは、
自分にふりかかる「厄」は自分の「役」に立つ経験に昇華させられるという実感。自分の心と体の小さな変化に集中して、特に心を裏切らないよう自分の心に寄り添っていると、厄は幸せになるための気づきのヒントを与えてくれる大事な宝物だと気づけた3年でした。厄払いの神事は僕にとっては必要ないものでした。自分という自然(神)に向き合うだけでいいような気がします。
山頂に祠もいらない。神事もいらない。松や竹を切り落としてつくる門松も必要ない。
そんな無機質な男になってしまったのは、屋久島のせい。島の自然に入り込むと、もうあちこちに神の気配を感じるんです。巨石を流れ落ちていく水にも、沢に突き刺さった巨木にも、瑞々しいコケにも、曇天のおっかない雲にも、猿にも、草木にも。瀬切川にはもうヤオヨロズ(八百万)以上の神々が。
自然を冒険していると、心から幸せになれる感動がたくさん訪れてくれます。それらはすべて、言葉では到底形容できないほどの美しさや可愛さ、壮大さ、怖さを内包しています。それらの感動を僕らの先祖はカミと名づけて、言語化できないこの心の作用を片付けるしかなかったのかもしれません。
自然遊びは、神との対峙。
共に遊ぶ友もまた神。
今年もユニークな神といっしょに
この島のたくさんの神々とお会いして
感動という最上級の栄養を、心に。
よか初詣でございました。